陽平たちがこちらに来て1週間が経った。
 部屋を出てバルコニーに出た楓は、深呼吸をして胸いっぱいに朝のすがすがしい空気を吸い込む。
「今日も良い天気になりそう」
「おはよう。早いのネ」
「おはようございます」
 にこりと微笑んで振り返れば、エナが立っていた。彼女はうぅんと伸びをしながら楓の横に立ち、
「待たせたわネ。ポイントが繋がったワ」
 穏やかな微笑みを浮かべた。
「繋がっ……! じゃあ!」
「ええ。もういつでも帰れるわヨ」
 今回の件はめったに起きないことだけに勉強になったとエナは笑う。
「アナタたちにとっては、災難でしかなかったけれど」
「いえ、私たちにとっても良い経験になりました」
「そう言ってもらえると少し気がラクになるワ。帰れることは朝食の席で、グリモワール様から話してくださるはずヨ」
 グリモワールの話では、楓たちがこちらに来た時間とプラスマイナス10分くらいの誤差で戻せるとのことである。
「そんなに正確に戻せるものなんですか!?」
「普通は無理ネ。可能性としては……えぇとウラシマタロウ? みたいなことになっていることもあり得るワ」
 なのに、10分以内の誤差という信じられない数字をはじき出したのは、それだけグリモワールの持つ魔法技術が優れているということだ。
「術式を拝見させていただいたけれど……半分くらいしか分からなかったワ。悔しいけれどネ。特に時間系統の展開部分なんてちんぷんかんぷん。あんな展開式、見たことがないワ」
 エナは悔しそうに唇を噛む。
 その横顔を見た楓は、思わず目を見張った。
 楓は、常日頃から彼女が『天才だ』と口にしていることを知っている。ちんぷんかんぷんなんて言葉を口にするのは、魔導師としてのプライドが許さないのではという疑問がわき、聞いてみた。
「そんなこと、口にしていいんですか?」
 どういうことなのと問いかける視線を向けられ、楓は少し迷って言葉を捜した。
「私は魔法使いではありませんが、そんな弱気なセリフを口にして良いものかと……あなたは、天才なのでしょう?」
 エナは悔しそうな顔をしていたけれど、そのエメラルドの瞳は挑むような強い意思が宿っていたのである。
 姉と比べられ、悔し涙を流したかつての自分の姿が重なるようでいて重ならない。楓には、彼女のような挑戦的な意思を瞳に乗せることはできなかった。
 視線を泳がせる楓を、エナはきょとんとした顔で見つめ「天才にだって分からないモノは分からないワ」
 あっさりと肩をすくめてみせた。
「どんなに優れた演奏家だって、自分が得意とする楽器以外のことは、よく分からないものヨ。それが、全く違う譜面を使うものだったら、なおさらだワ」
 ギターの譜面と三味線の譜面は違う。ギタリストが三味線の譜面を見てもよく分からないのと同じだ。
 エナは人差し指をくるくる回しながら、楓を見つめる。
「魔法と一言で言うのは簡単だけれど、各流派の根源となる思想は様々ヨ。一通りは勉強しているけれど、グリモワール様の術式は別。その根源思想をはじめ、ほとんどが公にされていないのヨ」
 だから分からなくて当たり前。分からないのが普通。
「分からないことがあるって素敵だと思わない? 出来ないことがあるのも同じ。やりがいがあるワ」
「前向き……なんですね」
「魔法をもっと発展させたいっていう目標があるもの。グリモワール様の下で勉強させてもらいたいのも、その目標のためヨ」
 魔法の発展を願うのも、それによってビーストの被害を減らせたらと考えているからだ。
「カエデは? カエデは何のために忍びであろうとしているの?」
「私は…………」
 何のために忍びであり続けるのか?
 そんなことは考えたことがなかった。
 楓が答えられずにいると、エナはくすくすと笑みをこぼした。それは、同年代の少女へ向けたものというよりは、先輩が後輩へ向ける大人びたものに似ている。
「なら、アナタへの宿題ネ」
「そう……ですね。はい。じっくり考えることにします」
 自身の思考に沈みかけていた楓は、エナの言葉にそれをやめ、かわりに微笑み返した。
「それじゃあ、ワタシは少し仮眠を取ってくるわネ」
「今から寝るんですか?」
「ここのところ、きちんと眠っていないのヨ」
 苦笑いを浮かべたエナは、おやすみなさいと言って楓に背を向けた。
 その背中におやすみなさいと返して、少女は胸に手を当てる。
「忍びであり続ける理由……」
 ガーナ・オーダとの戦いが終わった後も、楓はクノイチのままに違いない。そのことに疑問を持ったことはないが──そもそもクノイチではない自分というのが想像できない──では、なぜそうあり続けるのかと聞かれると困ってしまう。
 今はまだガーナ・オーダとの戦いについて考えることが多すぎて、そこまで思考を回すことはできないが、終わりに近づけば、あるいは戦いが終わったら、考えなくてはならないだろう。
 忍びとしてスキルアップするために、それは必要なことに思えた。


「え?! 帰れるんすか!?」
 エナが言ったとおり、元の世界に戻れるということは朝食の席で、陽平たちにも知らされた。
「おう。いつでも帰れるぜ」にやりと笑い、煙管をふかせるグリモワールの横で、
「やった!」かなえが諸手を挙げてはしゃぐ。
「お。やっとか」
 いちごジャムをたっぷり塗ったトーストをほお張るクオンは、人間サイズ。なんでも、1日3回の食事時は人間サイズに戻るのが王嶺寺家ルールなのだそうだ。
「お前らがこっちにきた現地時間と10分前後の誤差は出るかも知れねえが……そこらへんは勘弁してくれ」
「そんな! それくらいで済むんなら何も言うことはないっすよ」
 いやいやと手を顔の前で振りながら、陽平は後輩を見る。柊と楓も、もちろん言い分は同じだ。
 10分くらいの誤差なら、文句をつけるつもりはない。それどころか、こちらと同じだけの時間が流れていることも覚悟していたのだから、ありがたい限りである。
「でしたら、あちらの時間とほぼ同じ時刻にこちらを出発されては? 体的にもそのほうが楽でしょうしね」
「そうですね……」
 カルニィの意見にうなずいたところで、楓は食堂の時計を見上げた。時刻は間もなく朝の8時になろうとしている。
「──っ! だったら、今すぐに用意しないと!」
「うわ、本当だ!」
「マジかよ?!」
 3人は慌てて朝食を片付けにかかった。
「え? 何? もしかして朝やったん?」
 大急ぎで食事を片付けていく3人を、かなえはまん丸にした目で見つめる。問われたほうは咀嚼しながら、
「登校途中だったンだよ!」
「学校の校庭でこちらに呼ばれてしまって──」
「10分差なら、遅刻にはならねえな」
 瞬く間に食事を終えた3人は、ごちそうさまと言う間すら惜しんで、寝泊りしている客室へ飛び込んだ。
「……そんなに慌てる必要ねえのにな」
 こちらを出発する時間が真夜中であっても、出た先は朝なのである。ゆっくり食べて着替えても、向こうにつけば着く時間は同じだ。
「ま、いいんじゃねえの?」
 肩をすくめたグリモワールは、ポイントに行って最終調整をしてくると、ダイニングから出て行った。
「ほな、ウチはエナを起こしてくるわ」
 牛乳を一息で飲み干したかなえが席を立つ。
「何か一気に慌しくなったな」
「そうですねえ」
 残ったクオンとカルニィは、我関せずといった顔で紅茶のカップを口につけた。


「本当、世話ンなったな」
 学校の制服に着替え、学生鞄を手に持った陽平たちは、邸の裏山にあるお石さんのところに来ていた。
「元々はグリさんが悪いんやもん。気にせんとって」
 あっけらかんと、かなえは笑う。とても女子中学生とは思えない懐の広さであった。
「総馬さんにもよろしくお伝えくださいね。本当はきちんとご挨拶するべきなんでしょうけど……」
 グリモワールとカルニィの顔を見ながら、楓はぺこりと頭をさげた。だったら、出発を一日延ばすかと骨格標本が提案してきたが、それは断った。
 このままずるずる居ても仕方がない。
「へへっ。楽しかったよ。色々勉強ンなったしね」
 鼻の下をこすりながら、柊は照れくさそうな笑みを浮かべた。
「オレも面白かったぞ。また来いよな」
 ポンと柊の肩を叩きながら、妖精サイズクオンがにかっと笑みを浮かべた。
「ええ、是非。今度はニンジュツについて、詳しく聞かせてくれると嬉しいワ」
 少し眠たそうにしながら、エナが微笑む。彼女らしい見送りの言葉だと思いながら柊は「そん時はお手柔らかに頼むよ」と苦笑いを浮かべた。
「よっと……おし。これで接続完了」
 涙型の巨石に触れてごそごそと何かをしていたグリモワールが、ぽんと石の表面に手を置く。白い骨の手が石の表面から離れると、石はぼんやりと光り始めた。
 陽光すら跳ね返すような、青白い光。
「どうしたらいいんすか?」
「どうも何も、そのまま突っ込んできゃいーんだよ。突然接続切れて、岩と正面衝突ってこたぁねえからよ」
 カカカとグリモワールが笑う。
 どうでも良いが、お化け邸のスカルが突然笑い出すのに似ているので、その笑い方はやめてもらいたい。
「……それじゃ」
 名残は尽きないがいつまでもこうしている訳にもいかなかった。陽平は微笑を浮かべて、見送りに来てくれた仲間たちに手を振る。
「元気でな」クオンが笑う。
「気ぃつけてっちゅうんも何かヘンな感じやけど……気ぃつけて」かなえは目じりにうっすらと涙を浮かべていた。
「君たちの先に幸いがありますように」
「色々タイヘンみたいだけれど、頑張ってネ」
 カルニィとエナも微笑みを浮かべていた。
 この2人らしい激励に、風魔兄妹の表情も柔らかいものになる。
「ありがとうございます」
「みんなも頑張ってね」
 楓と柊の言葉に、クオンたちは力強くうなずき返した。
 2人は先に岩の中へと歩き出していた陽平の後を追いかけ、青白い光に身を投じる。
 こちらへくる時は、浮いているのか落ちているのか分からない、不思議な感覚に包まれたものだったが、帰りは一瞬だった。
「…………」
 ぱちぱちと瞬きをすれば、そこは見慣れた学校の風景。
 おはようと声を掛け合う生徒たちの声が聞こえる。
「……帰って来たんだ」
「そう、みたいだね」
「時間はほぼジャストですね」
 校舎に埋め込まれた時計を見ると、自分たちが登校していた時間とほぼ同時刻。誤差は10分もない。
 白昼夢でも見ていたのかと錯覚を覚えるが、楓の腕時計は、クオンたちといた頃の時間を刻んでいた。
「……じゃまよ」
 冷ややかな声に思わず背筋をただし、陽平は振り返る。
「天城……!」立っていたのは、クラスメイトの天城瑪瑙。つい、久しぶりだと言いそうになってしまうが、こちらの時間では昨日もクラスで顔を会わせたばかりだ。
「変な人ね」
 おはようと続ければよかったのに、それもできなかった陽平は、瑪瑙から変な人のレッテルをいただいてしまった。
 ちなみに風魔兄妹はぬかりなく「おはようございます」と後輩らしい挨拶を述べ、おはようと返事をもらっている。
「まだまだ未熟ですね、先輩」
「思考の切り替え、もうちょっと早くできるようになンないとね」
 高校では先輩でも、忍びとして後輩である。
「了解」
 忍びの先輩のお言葉に、陽平は力ない返事をするのであった。


 オレもクオンに負けてらんねえな。
 遠いところにいる少年闘士の姿を思い出し、少年忍者は校舎へ歩き出した。


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