梅雨も間近に迫ったある日。勇者忍軍の姫である翡翠は、風雅陽平を探して通路を小走りで進んでいた。胸にしっかりと抱えているのは、ティーン向けのファッション雑誌である。


オリジナルブレイブサーガSS
涙雨の後に……



 翡翠がお目当ての人物を見つけ出したのは、武道場の前だった。かなり厳しくしごかれたのか、風雅陽平は、長い棒を杖代わりに、体を引きずるようにして歩いている。
「クソ親父……」
 今も父の嘲笑が耳にこびりついているような気がしてならない。悔しさから、ぎりぎりと奥歯をかみしめていると、
「ようへいっ!」
 後ろから名前を呼ばれた。聞き覚えのある声に振り向けば、
「翡翠?」
 主君が、笑顔を咲かせて駆け寄ってくる。息せき切って走って来るのを見て、陽平は目を丸くした。どうしたんだと問いかけると、
「これ」
 抱えていた雑誌を開き、そこに映っている写真を指差した。翡翠が開いたページは、傘の特集が組まれている。その中でお姫様は、シーホースというブランドの傘を気に入ったらしい。ジュエルシリーズと銘打たれた品の1つで、宝石の翡翠と同じ綺麗な明るい緑色のものだ。そこにブランドマークである海馬がプリントされている。
 カワイイというよりは、大人っぽい格好いいといった形容がふさわしい傘だった。
「ブランド物……」
 購買も艦内マーケットも、幅広い品揃えを誇っているが、さすがにこういったブランド物となると取り寄せてもらわなくてはならなくなる。
 翡翠から雑誌を借り受け、ぺらぺらと捲っていると、巻末に取扱店の一覧が掲載されていた。それによると、アクアワードにも取扱いをしている店があるらしい。
「……明日、買いに行くか?」
 幸いにして明日は、休みだったはず。それに、トリニティ予報のパーセンテージも低かったように記憶している。陽平が言うと、
「行く」
 少女は、こっくりと頷いた。


 ほぼ同時刻。
「エリィさん! 助けてくださいッ」
「んに? ユマちゃん、どうしたの?」
 昼食を食べ終え、さてこれから何をしようかと考えていたエリス=ベルは仲間であるユマが、突進するように抱きついて来たことに、ぎょっと目を見張る。
 よろけそうになったところを何とかこらえて、
「何かあったの?」
 少女に問いかければ、
「私、どうしたらいいかッ!」
 かなり混乱しているようであった。
「まあ、落ち着いて。ね?」
 目をぐるぐるの渦巻状にしているユマの肩を叩き、エリィは彼女を落ち着かせようと試みる。深呼吸をするように促せば、少女は素直に従った。
「ん。それで、何があったのかなあ?」
 落ち着いたのを見計らって、エリィはもう一度問いを口にする。
「あの、実は……」
 ユマを混乱に陥れたのは、ブリットの何気ない一言であった。
「何を言われたわけ?」
「……どうしてスカートをはかないんだって……」
 どよよ〜んとした暗雲を頭の上に乗せて、ユマは答える。どこから聞き込んできたのか、ブリットの頭に『女性はスカートを好むもの』という情報がインプットされてしまったらしいのだ。
「ありゃあ……」
 それは弱ったねぃ。エリィは困り顔で、頬を掻いた。
「それで、どう答えたわけ?」
 物心ついた時から戦場にいたブリットに、乙女心という複雑怪奇な思考回路を理解しろというほうが無理である。自信がないと正直に答えたところで、服装に自信がいるのかと、強烈なカウンターパンチが返って来そうだ。
「持ってないって答えたんです。そうしたら──何がどうなって、こうなったのか分からないんですけど……明日、一緒に買い物に行くことになってしまって……」
 ユマの頭上にかかった暗雲のせいか、エリィの目には彼女の肩や頭などからキノコが生えているように見えた。
 女性の買い物に付き合うのも男の甲斐性。
 どこかの誰かが、そんなことをブリットに吹き込んだらしいのだ。
「ふうん……。あ! ってことは、ブリットさんとデートなんだ!」
 ぱんっと両手を叩き、エリィは笑顔を浮かべる。
 とたん、ユマの顔が真っ赤に熟した。同時に、ぼふーっと湯気がふきだす。
「はっはあ〜ん。助けてっていうのは、もしかして何を着て行こうってこと?」
 金髪の少女が含み笑いを浮かべているのにも気づかず、ユマはこくこくと何度も頷いた。
「そういうことなら……」
「任せてもらいましょうか」
「ぅひっ?!」
 後ろから首筋を包み込むように撫でられ、ユマは奇妙な悲鳴を漏らす。恐る恐る振り向けば、
「ね? お人形さん♪」
 ドリームナイツの1人、神楽崎麗華が、にこやかに笑って立っていた。きらりと光る双眸が、逃がさないわよと語る。
〈麗華様が(また)闇に染まってしまいました……〉
 彼女の側に控えていた、カイザードラゴン(擬人化中)が、そっと目元の涙を拭った。
「で、ショッピングにはいつ出かけるのかしら?」
「あ……明日……です」
 なるべく麗華と目線を合わせぬようにしながら、ユマは答える。今すぐにでもここから逃げ出したいのだが、
「明日かあ。じゃあ、急がないとねぇ」
 がっし。左腕をエリィに抱えられ、脱出は不可。
 窮鼠猫をかむというコトワザがあるが、今のユマにはその行動を起こすだけの勇気がない。
「半日あれば、大丈夫でしょ」
 がっし。ユマの右腕を抱え、麗華が「ね?」
 天女のような笑みながら、漂ってくるこの凄みは何なのか。
「お、お手柔らかに……」
 お願いしますの言葉は、はっきりと口に乗せることができなかった。
 ドナドナド〜ナ〜♪


「ようへい、いそぐ」
 ぱたぱたと通路を駆けていた翡翠は、立ち止まって後ろを振り返った。そこには、ゆっくりとした歩調で歩く陽平がいる。少年は苦笑を浮かべながら、
「そんなに急いでも、定期便の出る時間は早くならないぞ」
 そうと分かっていても、はやる心は抑えられないのだろう。翡翠は小走りで戻って来ると、ぐいぐいと陽平の袖を引っ張って駆け出した。
「分かった、分かったから。引っ張るなって」
 お姫様に引っ張られながら、陽平が定期便の発着場につくと、かなりの人数が集まっていた。
 今日は休日で、トリニティ予報の確率もゼロに近いとあれば、無理もないことである。
 考えることは皆同じかと、陽平の顔に笑みが浮ぶ。
「ゆま」
「え? あ、ホントだ。珍しいな」
 搭乗待ちの列に並ぶクセのある黒髪の少女の隣には、彼女のパートナーである青年の姿もあった。



 陽平が珍しいと評したのは、2人の格好がいつもと違うからである。
 ユマはフリルの付いたカーディガンに、縞のある7分丈のパンツを穿いているし、ブリットは黒のパーカージャケットを羽織っていたのだ。
 よく見れば、パーカーにはコウモリの刺繍が施されている。ジッパーの銀色がアクセントになっていて、中々格好いい。が、同時にブリットが気に入って購入したとも考えにくかった。
「おはようございます。どうしたんスか? それ」
 2人に声をかけながら近づき、陽平は早速パーカーについて、ブリットに聞いてみた。
「腕の傷を隠すのに羽織っていけと、拳火がな」
 おはようの挨拶の後で、青年が教えてくれる。
 なるほど。確かにブリットの腕の傷を見ると、驚く人も多いに違いない。本人のせいではないが、あの傷だらけの腕は、休日の街に不似合いである。
「ゆまも出かけるの?」
「ぅあぁはいっ。そうですッ」
 少女の裏返った声に、翡翠はきょとんと目を丸くした。
直後、くすくすという笑い声が聞こえて来る。声の方に顔を向ければ、ウィルダネス組のロボット紅一点、グレイスがいた。
 ロボット紅一点と言っても、今現在、ラストガーディアンに在籍している多くのロボットは人の姿をしている。したがって、彼女も18、9頃の女性の姿になっていた。
「スカートを買いに行かれるんですって」
 笑みを浮かべたまま、彼女はユマに同意を求める。同時を求められた方は、恐縮した様子で小さくうなずいた。
「イサムさんたちも出かけるんスか?」
 グレイスの隣には、彼女のパートナーであるイサムがいる。陽平が尋ねると、アクアワードにある美術館で『茶の湯の美』という特別展が催されるのだそうだ。
「はあ……そうなんすか」
「特別展にかこつけた、デートですね」
 屈託のない笑顔を作ったイサムは、その笑顔を隣のグレイスにも向けた。彼女は少しも恥らうことなく、ええと頷く。
 ユマとブリットがそうであるように、こちらも普段とは違う装いだ。
 変わったデザインのロングカーディガンにフレアパンツという格好のグレイス。イサムもちょっと変わったデザインのジャケットに黒のブーツカットパンツを穿いている。尻ポケットには、幾何学模様の刺繍があった。




「陽平さんたちは? お買い物ですか?」
「これ」
 ユマの問いかけに、翡翠はもって来た雑誌のページを広げ、くだんの傘が載っているページを見せた。
「あら。ステキな色ですわね」
「きれいですね〜」
 少女が示した傘に、女性2人が見入る。イサムは「翡翠さんの色ですね」と微笑んだ。1人首をかしげるブリットに、翡翠という宝石があって、ちょうどこの傘のような色をしているのだと、イサムが教える。
「それで、翡翠の色か。なるほどな」
 戦場育ちの青年が納得したところで、定期便搭乗の順番が来た。
 買い物が済んだら、お昼を一緒にどうかとイサムから誘われた陽平だったが、
「いや、それはちょっと……。デートの邪魔するの、悪いですから……」
 笑顔で断った。
 それは、デートの邪魔をしたくないという理由のほかに、イサムの誘う先というのが少しばかり恐ろしくもあるからである。
「そこらのファミレスとか、イタ飯屋とかにゃならねえよな。絶対に」
 少年は1人、頷く。そんなことを考えているうちに、お目当ての店にたどり着いたようである。
 目的のブランドは、ファッションビルの1テナントとして出店しているはずだ。
「ここの……3階だったかな?」
 陽平はつぶやき、翡翠の手をとって、開店間もないファッションビルの中へ入って行く。エスカレータに乗って、くだんのショップへ向かう。すると、開店間もない時間帯だというのに、早くも数人の客が店内を物色していた。
「すごい人気だな」
 陽平が思わずつぶやくと、翡翠はつないでいた手を離して、鉄砲玉のように店の中へ飛び込んでいった。
「おい、危ないぞ!」
 主君を追いかけ、陽平も店内に入る。落ち着いた色合いでまとめられた内装は、ティーン向けというよりは20代から30代の女性をターゲットにしているように感じられた。実際、店にいる買い物客は、それくらいの年齢の女性がほとんどである。
 けれど、そんな女性らに連れられた6年生くらいの女の子や中学生くらいの少女もいた。
 要するに、このブランドは20代から30代の女性とその子供をターゲットにしているらしい。
「翡翠、あったか?」
 女性ばかりの店内を少し居心地悪く思いながら、陽平は傘の並ぶコーナーへ足を向けた。
「あった」
 他の色、サファイアとかルビーとかアメジストなどはまだ何本もあったが、翡翠が求めていた色の物は残り1本だけ。
「良かったな、翡翠」
 少女の頭を撫でてやると、彼女は嬉しそうに目を細めてこっくり頷いた。明るい緑色の傘を大事そうに両手で抱え、翡翠はレジカウンターへ向かう。
「あ! そだ、翡翠……」
 と、声をかけた時にはもう遅い。こんな小さな子が? と目を丸くしている店員に向かって、少女は紙幣を差し出していた。
「あ…………」
 姫に仕える忍びは、がくりと肩を落とす。あの傘は、姫君にプレゼントするつもりでいたのだ。
「情けねえ……」
 昨夜は、どうやってさりげなくプレゼントを持ちかけるか色々シュミレーションしたというのに。
「ようへい?」
 精算を終えて戻って来た翡翠が、少年の顔を覗き込みながら、首を傾げた。
「何でもねえよ」
 少しばかりの哀愁を漂わせながら、少年は翡翠の頭を撫でる。何か他のところで挽回できるだろうか?
 一瞬、アンニュイな顔を作った陽平に手を引かれ、翡翠はもう一度首を傾げた。少女の頭の上では、クエスチョンマークが点滅していた。
 少年はため息一つついて、気持ちを切り替え、
「どこか行きたい所はないか?」
「ある」
 簡潔に答えた翡翠は、鞄の中から1枚の紙を取り出し、
「ここ」
 陽平に見せた。
 紙はアクアワードの簡易マップだった。タイトルは、皐月ちゃんのオススメグルメスポット。アクアワード編その2。手書きのその文字は、ミミズが水泳をしているようである。
 マップは聖アスタル学園の北部を書いたものだ。
「ふうん……」考えてみれば、このマップにある当たりは歩いた記憶がない。
「じゃあ、行ってみるか」
 マップと現在地を頭の中で照らし合わせつつ、陽平は翡翠の手を引いて歩き出した。
 ファッションビルを出た陽平は、まず学園を目指すことにする。その道中も、様々なショップが軒を連ねているので、それらのウインドウを覗きながらの移動だ。
 オリエンタル調の店。3コインショップ。雑貨屋や衣料品店、スニーカーの専門店やカフェなど。見ているだけでも飽きることがない。
「いさむ」
「え? あ……本当だ」
 足を止め、装飾品を取り扱う店の中を指差す翡翠。つられて陽平が中を覗き込むと、定期便で一緒になったイサムとグレイスがいた。
 傍から見れば、2人は普通のカップルに見える。あれが実は、ロボットとそのパートナーなのだと誰が思うだろう。
「……あんまりない関係だよな」
 人差し指で頬をかきながら、陽平はつぶやいた。男性人格のロボットに女性のパートナーというのは、何人か存在している。たとえば、陽平の幼馴染である桔梗光海がそうだ。
 男性人格であるロボットの方は、女性を仕えるべき主として敬っている傾向が多い。
 あの2人のように、ピンク色のオーラを放出しているというようなことはなかった。
「まあ、人それぞれってことなんだろうけど──」
「ようへい、気づかれる」
 くいくいっと陽平の袖を引っ張り、翡翠は言う。
「それもそうだな」
 2人とも気配には聡いから、あんまりじっと見つめていると気づかれてしまう。陽平は翡翠を連れて、逃げ出すように、店の前から離れた。
「……?」
 ペンダントの陳列棚から、店の入口の方へ顔を向け、イサムは首を傾げた。
「今、どなたか、こちらを見てましたわよね?」
「見てたようだね」
 こういう店だし、外から中を見ていても不思議ではない。今は視線を感じなくなったし、あまり気にする必要もなさそうだ。イサムがそう言うと、グレイスも「そうですわね」と首を縦に振る。
 興味はすぐに目の前のペンダントへ戻り、
「花も可愛いですけれど、蝶も捨てがたいですわね」
 2人が熱心に見ているのは、2センチから3センチほどのガラス棒の中に、ちり緬を切り抜いて作った蝶や花が入っているデザインの物だ。
 色も赤、ピンク、緑、紫、青など様々である。
「こっちは、そっちのとは逆だね」
 イサムが見せたのは、蝶や花の形を抜いたちり緬を閉じ込めた物だった。
「そちらもステキですわね」
 イサムは、持って来たペンダントをグレイスの首にかけてやり、
「どうかな?」
 グレイスは鏡の中を覗き込む。
 陽平の言うとおり、今のこの2人は普通のカップルにしか見えなかった。
 その頃、もう1組のカップルであるユマとブリットは何をしているかというと、当初の目的どおり、ショッピングにいそしんでいた。
 とはいえ、ユマの疲労度は急上昇中である。
 まず、スカートを選ぶ基準が分からない。スカートと一口に言っても、種類は沢山ある。膝上、膝丈、膝下など長さの違いや素材の違い。また、プリーツ、タイト、ティアードなど形の違い。プリントや刺繍、色などによっても変わってくる。
 相談しようと思っても、相談する相手がいない。ブリットにファッションに関する意見を求めるなんて無謀もいいところだ。店員に話を聞こうと思っても、ブリットに恐れをなして(?)、声をかけてくれるスタッフがいないのである。
 くわえて、あまり馴染みのない雰囲気にいることも、少女の疲労度を増やす要因になっていた。
「ぐっ、グレイスさん〜」
 昼食の待ち合わせ場所に現れた彼女へ、ユマは半泣き状態ですがりつく。
「どうなさったんですの?」
 ぱちぱちと瞬きをしながら、グレイスは少女に問いかけた。ユマは彼女にすがりついたまま、
「分からなくて慣れなくて、疲れました」
「なるほど」
 納得顔でグレイスは頷く。見れば、ブリットの方も疲れた様子でいる。
「お疲れ様です」
「忍耐が必要だという、拳火の話は本当だったな」
 苦笑いを浮かべるイサムへ、ブリットはがっくりと肩を落とした。
「そうおっしゃるだろうと思って、お昼はゆっくりできるところを予約しておきましたから」
 普段と変わらないアルカイックスマイルを浮かべ、イサムが案内したのは……
「ここ……ですか?」
 落ち着いた雰囲気の日本料理屋であった。白地の暖簾には達筆な字で清智と書かれてある。
「ええ」
 ごく普通に引き戸を引いて、イサムは店の中に入っていく。彼は、出迎えに出てきた店員と親しげに言葉を交わしながら奥へ進んだ。
「あの方に、1度、食べに来てほしいって誘われていたそうですわ」
 目を丸くしているユマに、グレイスがそっと耳打ちする。そうだったんですかと頷いたユマは、案内された場所を知って目を丸くした。
「こ、個室……ですか?」
「一番良い席をご用意させていただきました」
 店員はにっこりと微笑んだ。
 大きなガラス張りの窓の向こうには、立派な日本庭園が広がっている。


 ほぼ同時刻。陽平と翡翠は、ユマたちがいる料理屋からさほど遠くない場所にあるイタリアンレストランにいた。お昼のパスタランチを頼み、今は料理が出てくるのを待っている最中である。
(今頃、イサムさんたちは豪華料理食ってるんだろな)
 陽平がイサムの誘いを断ったもう一つの理由がこれだった。
「イサムさん、ケタが1つ違う所に平気で行くもんな」
 ウィルダネスという特殊な場所の生まれであることを抜きにしても、金銭に対する感覚が、陽平たち庶民とはどこか違うのである。


「…………」
 ごく。テーブルの上に並べられた料理を見て、ユマは思わず生唾を飲み込んだ。注文をしていないのに、料理が出てきたところをみると、イサムがあらかじめ頼んでいたに違いない。
(もしかしてコース……デスカ?)
「ユマさん、苦手なものでもありまして?」
「へっ?! あ、いえ! 違います! ありません。大丈夫です」
 心配顔で覗き込んでくるグレイスに、少女は顔の前でぱたぱたと手を振って否定した。
「その……食べられるんですよね? これ」
「もちろんですよ」
 食べられないものを出す料理屋がどこにありますかと、イサムに笑われる。
「そっ、そうですよねっ」
 あはははと乾いた笑いを浮かべつつ、ユマは料理に箸をつけた。どこにでもありそうな、ほうれん草のおひたし。なのに、口に入れたとたん、上品な味わいが口の中に広がっていく。
「美味しいです」
「む……」
 ちらっと横目でブリットを見れば、こちらもその味に驚きを隠せないようだった。
 ごく普通の緑茶でさえ、まるで魔法の飲み物のように感じられるから不思議だ。
「うん。いい味だ」
「上品なお味ですわね」
 縁のない料理に驚いているブリット&ユマの2人と違い、イサムとグレイスは食べなれた様子で箸を進めていっていた。


「オススメなだけあって、けっこう美味かったな」
 陽平の言葉に翡翠はこっくりと頷いた。
「デザートおいしかった」
 付いてきたのは、グレープフルーツのパイ。酸味の利いたクリームが間に挟んであって、とても美味しかった。持ち帰り出来ないのが、非常に残念である。
「そうだな。あれは美味かった」
 持って帰って料理好きのやつらに食べてもらえば、この味の再現も夢ではないかも知れないのになと、陽平も残念そうだ。
「今度、いっしょにくる」
「そうだな」
 レシートを会計テーブルに置いた陽平は、グレープフルーツのパイがいつまで食べられるのか、スタッフに尋ねている。
 少年とスタッフのやり取りを聞きながら、翡翠はふとお店の外に目を向けた。  開放されたドアの向こうを、一匹の猫が歩いて行く。おそらくは野良猫なのだろうが、毛並は悪く、どこか怪我もしているようだった。

「え? そんなに短いんすか?」
「初夏だけの限定品なんですよ〜」
 済まなさそうな顔で、店員は答えた。となると、なるべく早く再来店しなくては、再現依頼は難しいだろう。
 お釣りを受け取った陽平は
「なあ、ひす……あ、あれ? 翡翠?」
 後ろを振り返りつつ主を呼んだわけだが、小さな姫君の姿はどこにもない。
「妹さんなら、さっき外に出て行っちゃいましたけど?」
「あ、どうも」
 店員に一礼して、陽平は店を出た。
 右を見て左を見てみるが、主の姿はどこにもない。少女が買ったグリーンの傘は陽平の手の中にある。
「……どこに行ったんだ?」
 少年の頭上には、分厚い雨雲が広がりつつあり、
「早く見つけねえと……」
 くそッと短い悪態をついた陽平は、とりあえず来た道を戻ってみることにした。

 ててててっ。少女は、傷ついた野良猫を追いかけていた。待ってと声をかけるが、猫は人間が怖いらしい。怪我をしているのに、常と変わらぬ俊敏さで、翡翠から逃げ続けている。
「まって。うごくのだめ」
 猫の姿を見失わないよう、少女は懸命に走った。

「どこ行ったんだよ、翡翠……」
 守るべき主の姿を見失うなんて、忍び失格だ。
 焦りは募る一方。空を見上げれば、今にも雨粒が落ちてきそうな気配。通行人には片っ端から、翡翠を見かけなかったか尋ねているが、今のところ誰も見ていないらしい。
 同じ年頃の少女に比べると、運動神経が発達しているとはいえ、子供の足は子供の足だ。そんなに遠くへは行っていないはずである。
「事件に巻き込まれた……なんてことはないよな?」
 トリニティという強大な敵がいるというのに、人が巻き起こす事件は後を絶たない。
 主の無事を祈りながら、少年は
「すいません──」
 新しく見かけた通行人に、翡翠の姿を見かけなかったかたずねるべく、声をかけた。

 陽平の心配をよそに、翡翠は相変わらず野良猫を追いかけていた。何度も呼びかけ続けるものの、猫は振り返りもせず、駆けていく。その背中は、翡翠を拒絶しているようにも思えた。
 小さな猫の姿を追っていると、目じりに涙が浮んでくる。呼んでも、呼んでも答えてくれない背中が、誰かの姿と重なって見えた。
 ここで泣いても、猫は立ち止まらないし、振り返らない。
 それは、重なる誰かと同じ。
 だから、翡翠は泣きたいのをこらえて、猫を追いかけた。


「来た道を戻って行ったわけじゃなさそうだな」
 翡翠を見失ったイタリアンレストランへ引き返しながら、陽平はつぶやく。手に持ったグリーンの傘が、少女の不在を嘆いているようで、少年はぐっと歯を食いしばった。その時だ。
「陽平さん?」
 気遣うような優しい声音で、名前を呼ばれたのである。
 親の姿を求めて彷徨う、迷子のような気分でいた陽平は、反射的に顔を上げた。なぜか、涙がこぼれそうになる。
 少年の名を呼んだのは、グレイスだった。彼女の後ろにはユマもいる。彼女たちは、高そうな料理屋の前に立っていた。
 開いた料理屋の入口には、イサムとブリットもいる。
「どうかしたんですか? それに、翡翠さんは──?」
 あたりを見回しながらユマが問う。
 料理屋の中にいた青年2人も出て来て、どうかしたのかと目で尋ねてきた。
「それが、翡翠は……いなくなっちまって……」
「いなくなった?!」
 ぎょっと目を見張る4人に、陽平はレストランのことを話す。と同時に、翡翠から預かっていた簡易マップをポケットから引っ張り出し、少女を捜した範囲を説明。また、通行人も見ていないことを教えた。
「──となると、このレストランから先……」マップを指でなぞりながらブリットが言う。「この辺りを手分けして探してみるか」
「そうですね。お互いの連絡手段がないので、30分後くらいに、ここの公園で1度待ち合わせませんか?」
「陽平さん、翡翠さんの姿が見えなくなってどれくらいになりますの?」
 グレイスの質問に、陽平はしばらく考えた後、40分くらいになると答えた。
「後30分ほど探して見つからなければ、ラストガーディアンに連絡したほうがいいかもしれません」
 イサムやブリットたちがいた世界とは違い、陽平が暮らしていた世界とこの世界は世相が酷似している。だから、BANの活動に支障が出るようなトラブルを起こすようなことはないだろうが(翡翠には、そんな力もないわけだが)それでも、異世界人であることに変わりはない。事実は小説よりも奇なりという言葉もある。
 何が起きるか、分かったものではない。
「……そうっすね……」
 陽平が力なく頷いたとき、灰色の空からぽつぽつと雨が降ってきた。
「陽平さん、これを使ってください」
 イサムは料亭で借りた傘を少年に渡した。戸惑う彼に、青年は「もう1本借りますから」と微笑む。
「その翠色の傘を使うわけにはいかないでしょう?」
「あ……はい。ありがとうございます」
 受け取った傘をさして、少年はブリットが示した辺りへ走っていく。
「先に行っていてください。俺は傘を借りてから追いかけます」
「分かった」
 小さく頷いたブリットは、ユマと共に陽平の後を追いかけていく。
 ぽつぽつと降り出した雨は、本格的に降り始めた。

「まっ、まって……!」
 同年代の子供に比べて運動神経が優れているとはいえ、スタミナは別問題である。猫を追いかけ始めて、40分くらい。マーチを演奏し続けるのは、もうムリだと心臓が訴えている。
 それでも、翡翠は諦めずに走っていた。
 猫のほうも動きが鈍っている。
 もうちょっと頑張れば、きっと捕まえられるはずだ。そうしたら、陽平のところに戻って、動物病院を探してもらう。
 あと少しだからがんばれと、自分に言い聞かせる。
「あ、猫!」
「キッタねえの」
 心無い言葉は、翡翠の走る先にいる子供達のものだった。少年3人組は、道の端に駆け寄ると、そこで小石を拾い、猫に向かって投げ始めた。
 走り疲れていた猫は、小石を避けることができない。投げつけられた石の1つが当たり、その場に倒れる。
「だめぇっ!」
 翡翠は叫ぶと、猫を助けるために最後の力を振り絞って走り出した。
「いじめるのだめ!」
 倒れた猫を抱きかかえ、少女は少年たちをきっと睨みつける。その迫力に気おされたのか、少年たちは言葉を詰まらせると、
「けっ。何だよ、行こうぜ!」
「そんなの、よく触れるよな。信じられねえ」
「ありえねえって!」
 そんな悪態を残し、逃げるように去って行った。
 彼らの姿が完全に見えなくなるまで、翡翠は眉間に皺を寄せ、精一杯の怖い顔を作って3人を睨みつけていた。
 少年たちがいなくなると、少女はほうっと息を吐き、ようやく捕まえることができた猫に視線を落とす。
 ぐったりとした様子に、さっと血の気が引いていく。
「ようへい……!」
 少女は最も頼りにしている少年の名を口にし、顔を上げた。
 けれど、彼の姿はどこにもない。
 そして、ここは見覚えのない場所だった。
 途方に暮れる少女に追い討ちをかけるように、空から雨が降ってきた。
 迷子になったときの鉄則は、その場から動かないこと。猫のことは心配だが、翡翠1人で動物病院を探すのは難しい。ここは、陽平が迎えに来てくれるのを待つべきだ。
 雨を凌げる場所がないか、辺りを見回してみる。
「公園……」
 小さな児童公園だったが、真ん中に屋根付のベンチが備えられていた。いよいよ本格的に降り出し始めた雨を避けて、翡翠はそのベンチへ向かった。


「翡翠──っ」
 一応の区切りとした30分が過ぎる。陽平は、自分の不甲斐なさを呪いつつ、待ち合わせ場所にした公園へ向かった。
 マップによると、小さな公園らしい。これからどうしたものかと、自分の取るべき行動について悩んでいると、
「ようへい!」
 探していた声に、ぱっと顔を上げる。
「翡翠!」
 少女は公園にいた。薄汚れて、力なくうなだれている猫を抱えた翡翠は、目じりに涙を浮かべると、雨に濡れるのも構わず、屋根の下から飛び出した。
「ようへい!」
「翡翠っ!」
 探していた主の姿を認め、少年も駆けていた。飛び込んでくる少女を受け止め、「良かった」と安堵のため息をつく。が、このままあっさり許すつもりはなかった。
 眉に力を入れ、勝手にいなくなるなんてと、叱る。
 胸に傷ついた猫を抱えていることから、手当てをしなくてはと考えたのだろう。
 さすが我が主と誇らしく思う反面、声もかけずに追いかけて行ってしまったことを腹立たしくも思っていた。
「ごめんなさい」
 ぐすっと鼻をぐずつかせ、翡翠は頭を下げた。
「ちゃんと反省してるな?」
 少女と目線を合わせ、陽平は確認する。翡翠はこっくり頷くと、もう一度ごめんなさいと頭を下げた。
「よし。こんなことは一回きりにしてくれよな」
 1人で頑張ったのだろう少女をいたわるように、陽平はその頭を撫でてやる。
「ようへい、このこ……」
「ああ。動物病院を探そうな」
 すんっと鼻を鳴らした翡翠は、腕の中の猫を少年に見せた。頷いた陽平は腰を上げ、
「翡翠、これ。──傘」
 預かっていた傘を差し出し、代わりに猫を受け取る。
「見つかったようだな」
 背後からの声に振り向けば、ブリットたちが立っていた。4人とも、ほっとした様子で胸を撫で下ろしている。
「ありがとうございました」
 少年が彼らに向かって頭を下げると、
「お気遣いなく。見つかって良かったですわ」
 グレイスがにこりと微笑んだ。ユマとイサムもその通りだと頷く。
「あ、この辺に動物病院ってないですかね?」
「動物病院ですか?」
 軽く目を見張るイサムに、陽平は翡翠から預かった猫を見せる。
「猫、けがしてる」
 買ったばかりのグリーンの傘をさし、翡翠が答えた。
「ああ、なるほど。そういうことでしたか」
 合点がいったと頷いたイサムだったが、動物病院となるとすぐには思いつかない。
「さっきの料理屋さんで調べてもらえないでしょうか?」
「そうですね、聞いてみましょう」
 ユマの提案に頷いたイサムは、早速料理屋に向かって走り出した。その後を他のメンバーたちもついていく。



「うわあ。キレイな傘だね。翡翠ちゃん♪」
 あの雨の日の翌日。翡翠は、買ったばかりの傘のお披露目をやっていた。
 近くに集まってきたのは、エリィや光海たちだ。
 翡翠は、嬉しそうに傘をさし、リクエストに答えてくるりと回ってみせる。そこへ、陽平がやってきた。
 「翡翠、昨日の猫な」
 「元気?」
 「怪我が治るのはもうちょっと先だけど、大丈夫だろうって話だ」
 少年の報告に、少女はほっと胸を撫で下ろす。
 「何かあったんですか? 先輩」
  きょとんと目を丸くする風魔楓に、陽平は「ちょっとな」と言葉を濁した。
 「病院の方で、猫の里親を探してくれるってさ。良かったな」
 翡翠の頭を撫でてやり、口元を緩める少年である。
 頭を撫でてもらった少女は、猫が無事だという安堵感もくわわって、とても嬉しそうに目を細めたのだった。



 オマケ
 その頃、ユマは自室にて、姿見と睨めっこをしていた。猫を動物病院に連れて行った後、グレイスという相談役を得てショッピングを再開させたのである。
 すぐにスカートというのは難しいだろうからと、グレイスはオーバースカートを勧めてくれた。
 色々吟味した結果、ギャルソン風の短いエプロンに似たデザインの黒いオーバースカートと同色のパンツのセットを購入した。
「う゛っ……う゛〜ん……?」
 トップスは、一緒に買った白のシャツと黒のパーカー付ベストである。
 スカート着用日常化への道は、まだまだ通そうだ。






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