「いいのか……?」 ジャンクの向かい側、翡翠の隣に座った釧が軽くうめく。翡翠は兄の隣で、おいしそうにメロンソーダを飲んでいた。 「別に飲み逃げするわけじゃなし、問題ねぇだろ」 コーヒーをすすりながら、ジャンクはあっさりと答える。 今、彼らは食堂街にあるカフェレストランに入っているのだが、人前に姿を現しにくい釧の存在を考慮してジャンクが空間を操作し、自分たちのことが気にならないように仕向けているのである。 「キサマ自身に問題はないのか?」 「このくらい、どうってことねぇよ」 突然現れた仮面の男に大騒ぎ、なんてことにはならねぇから安心しろと、ジャンクは苦笑した。 そういう意味ではなかったのだが、訂正するようなこともないだろう。黙って肩をすくめた釧は、自分のコーヒーに口をつけた。 「…………」 「どうした? コーヒーは駄目だったか?」 翡翠は自分でメロンソーダを注文したが、釧は何でも良いと答えたため、ジャンクが勝手にコーヒーを注文したのである。 「……いや」 釧は少しばかり渋面を浮かべているが、それはマズイとかそういうことではなく、馴染みのない味に戸惑っているといった雰囲気だ。 そう言えば、彼がジャンクの所に飲み食いに来たときは大抵イサムがいて、日本茶を淹れていたように記憶している。 まあ、世の中、初体験というモノはいがいにそこらへんに転がっていたりするものだ。 「気に入ったら、うちでも飲めばいいさ」 「……ああ」 答えるまでに間があった上、釧の返事は短かい。本当に気に入ったのなら、そのうちオーダーが入るだろう。そう結論づけて、ジャンクは、自分のコーヒーに口をつけた。 「ソーダ、おいしい」 大人のやり取りなど知らぬげに、翡翠がつぶやく。ちなみに、陽平へのプレゼントの入った紙袋は、今もしっかりと持ち手の部分が少女の腕に通っていた。 30分ほどそこで時間をつぶして、店を出る。釧は再び姿を消した。 「ちょうど良いタイミングだったようですね」 「いさむ?」 聞き覚えのある声に翡翠が振り返ると、思ったとおり記憶どおりの人物が立っている。 「こんにちは。翡翠さん、釧さん」 膝を折り曲げて、イサムは翡翠と目線を合わしてあいさつをした。姿の見えない相手にもきっちり言葉をかけるところが、律義というか何というか。 「沙耶香はどうした?」 「今、お化粧室です。そこの休憩場所に戻ってくるはずなので」 「あ、そ」 一行はイサムの示す休憩場所に移動。そこから少し離れた所に、喫煙スペースがあったので、ジャンクはそちらに足を向けた。 翡翠とイサムからはなれ、一人、煙草をふかしていると、 「イサム殿、お世話をかけました」 沙耶香の執事、倉之助がやってきた。 「いえ。こちらこそ気を使わせてしまったみたいで……」 席を立ったイサムは頭を下げ、沙耶香は化粧室に行っていることを告げる。 そのころ、沙耶香は、化粧室の鏡の前で髪のほつれを直していた。イサムと待ち合わせている休憩所には、翡翠とジャンクも合流しているはずである。見苦しいというほどではなかったが、そこはそれ。身だしなみはきちんと整えておくべきだ。 「……あら?」 満足のいく仕上がりによしと小さくうなずいた沙耶香は、洗面台に何かの種が転がっているのに気づいた。 大きさはヒマワリの種くらい。ただし、形は朝顔の種に似ている。植物の知識には、多少の自信があったが、こんな種を見るのは初めてだ。 「何の種でしょう?」 種を手に取り、沙耶香は引っくり返したりして種を観察する。けれど、観察したからといって、これが何の種かは分からなかった。 「倉之助は知っているかしら?」 食事中に、あと30分ほどで合流できるとの連絡が彼から入ったのである。時間的に考えて、そろそろこちらに来ているはずだった。 「育ててみようかしら?」 種をハンカチでくるみ、沙弥香はそれを着物のたもとにしまう。もう一度、鏡を見て帯やおはしょりに乱れがないかと確認し、お化粧室を後にした。 イサムが待っているはずの休憩所に向かうと、彼と倉之助、そして、翡翠とジャンクの姿が見えた。ジャンクは彼らとはなれて、煙草をふかしている。 「さやか」 「こんにちは、翡翠さん。ジャンクさん」 沙耶香の姿に気づいた翡翠が、にこやかな笑顔を浮かべてくれた。沙耶香も少女の笑みに負けないようなとびきりの笑顔を彼女に向ける。 彼らの側に行こうとしたその時だ。 ── くすくすくす。 沙耶香の耳に、艶のある女性の笑い声が聞こえてきた。 「え?」 笑い声の正体を思う暇もなく、沙耶香はめまいに襲われる。 「お嬢様!?」 倉之助の声が聞こえたが、その声に答えることすら億劫だった。 「何だ、こりゃあ」 目の前に突如として現れた巨大な怪植物に、ジャンクは目を丸くする。 苔むした緑色の樹肌は、何百年という時間の経緯を感じさせるものだった。デパートを形作っていた鉄筋コンクリートは姿を消し、周囲は原始林のようになっている。 「どうなっている?」 釧が姿を現し、周囲に目線を投じた。 「こういうことをしそうな連中というのは、一つしか心当たりがありませんが……」 口調はのんびりとしたものだが、イサムも油断なく周囲に目を配っている。 「さやか!」 主人を慮って飛び出した倉之助の後を追って、翡翠が走りだす。その後を男3人が当たりを警戒しながら続いた。 「お嬢様!」 沙耶香が立っていた所は、彼女を取り込めるほどの大きな幹が伸びている。その幹から、少女が袖を通していた着物の袂が生えていた。 「取り込まれたのか?」 「というより、お嬢様の袖からこの幹が生えてきたように見えましたが──」 釧の問いに、倉之助が答える。訳の分からない事態だけに、その声音には焦燥感が見え隠れしていた。 「とりあえず、そこから出さねぇとな」 ジャンクは言うと、右手に大鎌を現す。彼もまたトーコと同じように、精神物質化能力を有している。 倉之助に少女の頭の位置をたずね、それより少し上を、彼は無造作にばっさり切った。 続けて幹の樹肌を切り、選手交代。イサムが力任せに樹肌を引っ剥がす。 「お嬢様!」 幹の中から現れた主人に、倉之助が駆け寄り、その肩をゆすった。翡翠も沙耶香の側に近づき、「さやか、おきる」と着物のたもとを引っ張る。 「ん……あ……私──は……」 「お嬢様!」 目を覚ました主に、倉之助は自分が見たことを伝えた。話を聞き終えた沙耶香は、化粧室で拾った種のことを思い出し、袂をさぐる。 「……ありませんわ」 「さやか、なくした?」 「いえ、違います。実は──」 大きな朝顔の種のようなものを化粧室で拾ったことを、沙耶香はみんなに伝えた。 「それが原因だな。多分」 「しかし、たった一つでここまで大きくなるとは思えん」 釧はつぶやいた後で、数をばらまけばいいだけの話かと自己完結する。沙耶香の話では、朝顔の種にしては大きすぎるが、ヒマワリの種程度のものだったというし、それなら数をばらまいても人目にはつきにくい。 ──取り込めなかった人間がいると聞いてきてみれば、きさまたちは…… 多分に敵意を含んだ気配に、釧は無意識に反応していた。隠し持っているクナイを気配に向かって投げ付ける。 ──ヒイィィッ! 気配は悲鳴と共に消えた。 「……容赦ないですね」 「どこに当たった?」 位置的に、顔のどこかではないかと思うのだが、はっきりとは分からない。あぜんとしているイサムにたずねると、「眉間です」 「……そうか。しかし、場には何の変化もないな」 何の感情も、釧の表情には現れない。イサムもあぜん顔をすぐに引っ込めて、 「そうですね」 淡泊な連中である。 「場にはなくても、気配には乱れがあったぞ。下に居るらしいな」 大鎌を肩にかつぎ、ジャンクは床を指さした。 「参りましょう。この樹には、私のように他の人も取り込まれているのでしょう?」 さっき聞こえてきた口ぶりからすると、沙耶香の言うとおりである。 「取り込まれている人たちをこのままにはしておけませんわ」 沙耶香はきっぱりと言い放つ。それを後押しするような形で、「このまま、よくない」 と、翡翠もうなずいた。 こうなると、男性陣の立場は非常に弱い。倉之助は主人の意向を尊重するだろうし、それは釧にも同じようなことが言えた。 残るイサムとジャンクはしょうがないとばかりに苦笑し、肩をすくめ、 「姫君のご意向のままに」 やや芝居がかった仕草で、少女たちに向けて軽く頭を下げた。 建物の内部は原始林になってしまったため、エレベータもエスカレータも運転がストップしてしまっている。なので、ジャンクが現した大鎌で枝を切り捨てながら、階段をおりていくことになった。 どこの枝や幹に人が取り込まれているのか分からないというのに、ジャンクはあまりにも無造作にばっさばっさと切り捨てて行く。 「じゃんく、待つ」 とうとう我慢仕切れなくなったのか、翡翠が飛び出し、待ったをかけた。普通なら服の裾を引っ張っるのだが、ジャンクの場合、それよりもいいものがある。 「いッ──?!」 ゼニスブルーの、膝よりもまだ長い髪だ。 「引っ張るなッ」 後ろ髪を押さえて、ジャンクが後ろを振り返る。引っ張るのはやめたものの、翡翠はまだしっかりと彼の髪を握り締めていた。 「ほかの人、傷つける」 「ンなヘマやらねぇよ」 どこの枝に人が取り込まれているのか、ジャンクにはそれが視えている。こういうときのための精神感応能力だ。すると、 「ほんとう?」 翡翠は後ろを振り返り、イサムに確認した。 「何で、そっちに確認する?」 そんなに信用がないのだろうか。だとしたら、ちょっと哀しい。 「本当ですよ」 どうして俺に聞くんだろう? と内心首をかしげつつ、イサムははっきりと答えた。 彼のお墨付きが出たので、翡翠は納得したらしい。つかんだままだったジャンクの髪を手放し、兄の元へ戻った。 この一件により、ジャンクの枝払い作業が少々投げやりになったのを付け加えておこう。 この一件以外は、たいしたトラブルもなく、一行はてくてくと階段を下りて行った。 「これはまた……」 倉之助は目の前に現れた巨木に目を見張る。彼だけではなく、沙耶香と翡翠もぽかんと口をあけている。 「なんて大きな木」 沙耶香に同意するように、翡翠がこっくりうなずいた。 「あそこだ」 ジャンクがあごで示した先に、人影があった。人影は女性のものである。 彼女は、長い年月を感じさせる巨木に背中を預け、苦しげにあえいでいた。 青々と茂る巨木の葉のかげには、白い花と赤いザクロのような実が見える。 ──おのれ…… 女性は眉間から血を滝のように流していた。苦痛に顔を歪めながらも、彼女の瞳には強い命のきらめきが宿っている。 ──許さぬぞ。このイノエに傷を……なぶり殺してくれる、勇者共ッ! 樹上から女が吠えた。眉間の血が滝から間歇泉に変わり…… ぱた。 女は倒れた。 「…………」 どう反応すればよいのやら。リアクションに困って、ぼーっと樹を見上げていると、 「あ、おきた」 ぱちぱちと瞬きをして、翡翠がつぶやいた。 女は近くの枝に向かって手を伸ばすと、実を一つもぎ取って、それを口に運ぶ。 ──わたしは倒れぬ!! 己をイノエと呼んだ女が叫ぶと同時に、巨木がざわめきだした。 ──さあ、ヲサベ! 母の仇を討つのです! みきみきめきみしぃっ。 この巨木、名前をヲサベというらしい。イノエの声に応えるように、巨木の枝先が槍のように鋭く変形していった。同時に枝そのものが、一匹の生物として命を得たかのようにうねる。蛇のように釜首をもたげ、ゆるやかだった動きが一瞬ぴたりと止まった。 来る。 誰もがそう思い、身体に緊張を走らせる。刹那、枝が少女たちに向かって襲い掛かった! 「くだらん」 吐き捨てるようにつぶやいた釧は、飛糸にて枝を切断。「ここは任せる」 言うが早いか、床を蹴り、樹上にいるイノエの元へ走った。妹を守るには、あの女を片付けるのが手っ取り早い。 「あ、おい!」 瞬く間に小さくなって行く釧の背中を見上げ、ジャンクは舌打ちする。片付ける順番は、イノエよりもヲサベの方が上だ。おそらく、イノエを片付けても、この巨木は黙らない。 「イサム! この樹を切り倒せ!」 「切り倒せと言われましても……」 それができる獲物がない。襲い掛かる枝を異能力で生んだ焔で焼き払い、イサムは弱り顔で答えた。 「心配するな。すぐに来る」 「は?」 イサムが間抜けな声を出すと、同時に空間の揺らぎが生じた。 ガッ! 「これは、俺の……」 揺らぎの中心に現れたのは、イサムの偃月刀である。2メートル近い巨大な刀は、巨木の根に深々と突き刺さっていた。 「それで何とかなるだろ」 「何とかしてみましょう」 ニヤリと笑うジャンクに、イサムも不敵な笑みを返す。 「任せた」 ジャンクは言うと、釧の後を追って宙に飛んだ。 「では、行きますか」 偃月刀の重みが頼もしく感じられる。イサムは刀を構え、「我流刀術 玉兎」 炎の塊が振り下ろした刀先から跳び、周辺の枝を焼き払う。 「倉之助さん」 「お任せを」 イサムにすべてを言わせず、倉之助は恭しく頭を下げた。沙耶香と翡翠は自分が守ってみせると、彼に応える。 「お願いします」 うなずき返したイサムは踵を返し、巨木の幹に向かって走った。 ──わたしたちのじゃまをするな! 「その言葉、そっくりそのままキサマに返す」 樹上では、イノエが釧と切り結んでいた。切り結ぶと言っても、釧が握るのはクナイであり、イノエは髪を生き物のように操って、釧の動きを封じようとしている。 「…………」 飛び道具は、全てあの髪によって弾かれてしまい、役に立たない。懐にもぐりこもうにも、やはり髪が邪魔をする。 どうにしかして、イノエの意識を逸らさなくては。釧がその方法について思案をはじめたそのとき、イノエが高らかに笑い出した。 ──聞け! これ以上、わたしたちのじゃまをすれば、この男の命の保証はないぞ!! イノエが指さしてしめしたのは、巨木の幹に身体の半分を取り込まれたジャンクの姿だった。 「なんと!?」 「ジャンクさん?!」 倉之助と沙耶香の口から悲鳴が上がる。 「うそ……」 翡翠が信じられないとばかりに目を丸くした。無理もないことである。 ジャンクは艦内の実力者たちからも一目置かれているのだ。これまで表立って戦場に立ったことはなかったが、その事実から彼も強いのだと、思っていたからである。 それなのに、こんなにたやすく敵に取り込まれてしまうとは……。 「イサム殿」 倉之助が、イサムを振り返る。この中で一番ジャンクを知っているのは、彼だからだ。 イサムはイノエをあざ笑うように肩をすくめ、「どうぞ、お好きに」 平然と答えて、偃月刀を巨木に突き立てた。 ──オォォォォォォ! 女のものとは別の、野太い悲鳴が上がる。 ──この男がどうなってもいいのか?! 「どうにかできるものなら、やってみてください」 驚愕に彩られたイノエの声を、イサムはさらりと受け流す。 「イサムさん!?」 「いさむ、ひどい!」 沙耶香と翡翠は、彼に非難の声を飛ばした。 「…………」 樹上から、釧はジャンクを見下ろしている。その表情にはわずかばかりではあるが、陰りが宿っている。 イノエを放って、助けにいくか? わずかな逡巡。しかし、彼は見てしまった。 巨木に取り込まれつつあるジャンクが、今にも大声で笑い出しそうになるのを、必死でこらえているところを。 心は決まった。 イサムの言うとおり、「好きにしろ」だ。 ありがたいことに、今のイノエは隙だらけである。女だな、と何の感慨もなく釧は思う。 ──おのれ! ならばお望みどお──げはぁ?! 「忘れたか? キサマの相手はこの俺だ」 釧は、イノエの脇腹にクナイを突き刺した。ぐっと力を込めると、 ──ぐぅ……ッ イノエの口から苦悶の声が漏れる。 ──おのれ、おのれ、おのれぇっ!! イノエは逆上し、釧に向かって髪を伸ばす。感情のままに襲い掛かる髪を避けるのは、たやすいことだ。釧は後ろに跳んで距離を取り、牽制に手裏剣を投げる。 ──この屈辱……許すものか。絶対に、わが子への餌にしてくれるッ 脇腹に突き刺さるクナイを抜き、イノエはそれを放り捨てた。顔は苦痛に歪み、奥歯をぎりりとかみしめている。 ──ウオォォォォォォ! ──ヲサベ?! 二度目の悲鳴に、イノエが背後を振り返った。 釧が真下に目をやると、幹はイサムによって、すでに3分の1ほどが切断されている。 ──くっ! やめろぉぉっっ!! イノエは枝を蹴り、イサム目がけて真っ逆さまに落ちていく。釧もためらう事なく、彼女を追いかけてダイブする。 ──トリニティにこの実を捧げねば、我ら親子に自由はない! こらえろ、ヲサベ! イノエは叫ぶと、髪を枝に絡ませ、急停止。側になっていた実をもぎ取り、乱暴に咀嚼する。 ヲサベはそれに応えるように、枝を研ぎ澄まし、イサムに襲い掛かる。しかし、イサムの全身から、焔がオーラのように立ちのぼり、瞬く間に枝を燃やしてしまう。 ──おのれ、こざかしいまねを! 実を完全に飲み下したイノエは、憎々しげに吐き捨てた。女の青白かった顔色にほんのりと赤みがさしている。 「あの実……治癒の効能があるのか?」 それなら、トリニティが欲するのも分からなくはない。属しているのは、何も機械仕掛けのロボットだけではないのだから。 イノエから少し離れた枝に着地した釧は、飛糸を女に向かって放つ。しかし、それはむなしく空を切った。イノエが、地上に向かってタイブしたのだ。 ──男でだめなら、女はどうだ?! 真っ逆さまに落ちながら、イノエは髪を伸ばす。狙うは、少女二人。初老の男に守られているだけの存在ならば、あるいは男共の動きを封じられるかもしれない。 イノエは、髪で落下の衝撃を支えると、床を蹴り、横に跳んだ。 「ぬっ?!」 初老の男は間に合わない。四方八方から繰り出されるヲサベの攻撃を捌くだけで手一杯だ。 「玉兎ッ!」 ──しまっ……! イノエの口から、ぎゃあ! と悲鳴が漏れる。失念していた。あの大きな刀を持つ男は、炎の塊を飛ばして来るのだ。 「お嬢様!」 それでも、イノエの動きを完全に封じることはできない。己の髪が、皮膚が焦げ付く匂いを苦々しく思いながらも、イノエは少女たちに飛び掛かることをやめなかった。 ──ああぁぁぁっっっ! 気合とも悲鳴ともつかぬ、イノエの咆哮。 沙耶香は翡翠をかばい、前に出た。 大丈夫。落ち着いて、よく見て。息を飲み、沙耶香は自分に言い聞かせる。 「はっ!」 襲い掛かってくるイノエの髪を、沙耶香は右腕で払った。続いて、鋭い爪を生やしたイノエの右手が伸びてくる。 「ふっ!」 右肘を真下におろす。それを補助するように、左手を伸ばし、 ごきんっ。 ──ひぐぁぁぁっ!? イノエが絶叫する。 「ひうっ」 翡翠はとっさに目をつぶり、肩をすくめた。 「私、守られているだけでは、ありませんわ」 沙耶香はイノエを見据え、構える。 「もはや、キサマに勝ち目はないな」 ──ぐっ……! 喉元にクナイを突き付けられ、イノエは苦渋に満ちた表情で、背後の釧を睨みつけた。 ──おのれぇぇぇっっ! ヲサベェェッッ!! イノエは息子の名を呼ぶ。ヲサベという名の巨木は、反応しない。 ──ヲサベ! 母を助けておくれ! ヲサベ!! 悲鳴のようなイノエの声にも、巨木は無反応である。いや、動きがあった。 ──ヲサベ?! 巨木が床に沈んでいく。 ゆっくりと、音もなく静かに、ずぶずぶと。 ともすれば側にいるイサムも巻き込まれそうに思えるのだが、彼は平然とその場に立っていた。 ──ヲサベ! イノエは釧の拘束を振りほどくと、半狂乱になって巨木に取りすがった。 ──ヲサベ! どうした?! 何があった!? イノエの呼びかけに巨木は答えない。ただただ沈黙を守り、沈み続けるだけだ。あれほど執拗に攻撃してきた槍のような枝も、今は完全に沈黙している。 「これは……一体?」 構えをといて、沙耶香は周囲を見回した。救援でも来たのかとも思ったが、そのような気配はない。 「ジャンクさんの仕業ですよ」 偃月刀を肩にかつぎ、イサムが少女たちの元へ歩み寄ってくる。 「でも、じゃんく、食べられた」 「喰われてねぇ」 巨木が沈み続ける中、反対に浮き上がってくるものがあった。ジャンクである。翡翠の発言が少々、カンに障ったのか、表情はやや苦々しい。 「ご無事のようで何よりでございますが──これは一体?」 驚きを隠せないまま、倉之助が周囲を見回してつぶやく。 イノエは、巨木と共に床に沈んでしまい、その姿はもう見えなくなってしまっていた。ヲサベと呼ばれた巨木も先のほうがわずかに残るだけで、全容のほとんどが床に吸い込まれて消えている。 かわりに現れたのが、ヲサベに取り込まれていた人々であった。人々は眠っているらしく、規則的に胸が上下している。とりあえずは一安心だ。 「後片付けの手間が省けたろう?」 建物のどこを見回しても、ここに原始林が出現していた痕跡は見受けられない。あるとすれば、いまだに眠ったままの店員や買い物客たちぐらいのものだ。店内は音楽だけが空しく流れていて、人のざわめきや人いきれは全くと言っていいほど、感じられない。 「そうでもないですよ。どうしましょうねえ、これ」 困り顔を浮かべ、イサムが肩にかついだ偃月刀を指さした。 「そっちも心配ない。回収班がすぐに来る」 「は?」 「呼ばれて飛び出た、回収班ザマス」 音もなくその場に現れたのは、敬礼をしたトーコである。 「とーこ、すまきは?」 「……げ、減刑してイタダキました」 心臓のあるあたりを手で押さえ、息もたえだえにトーコは答えた。 「とりあえず、アンタの刀はあたしが預かってくから」 「お願いします」 イサムが差し出した偃月刀を受け取り、トーコは、うっと小さな悲鳴を漏らした。偃月刀は14キロ弱もあり、トーコの力では持ち運びもラクではない。 「頼んどいたヤツはどうなってる?」 「ボロぞーきんのようになっております」 しおしおと頭を下げつつ、トーコは姿を消す。《テレポート》でラスガーに戻ったのだ。 「とーこ、そうじした?」 「まあ……そんなとこだな」 無邪気な翡翠の問いかけに、ジャンクふいっとそっぽを向いて答える。 「結局、あの女と樹はどうなった?」 「別の空間に封印した」 「封印!? そんなこと、できるんですか?」 沙耶香が目を見張る。 「あれが機械なら駄目だけどな。生物なら、可能だ。さすがに植物は初めてだったけどな」 ポケットから煙草を取り出し、ジャンクは火をつけ、うまそうに煙を吐き出した。 少女たちは、すごーいと素直に感心しているが、釧は彼の言葉を疑っている。横からの視線を感じて、そちらに目を向けると、倉之助もやや渋い顔をしていた。 「イサム殿……」 「俺に聞かないで下さい。俺もよく分からないんです」 二人の視線を受け止め、イサムは肩をすくめる。ジャンクがウツホだという生き物であることは知っているが、『ウツホ』という生き物のことについては詳しくない。 「触らぬ神に祟りなし、ですよ」 結局は、そういうことになるのだ。世の中には、知らなくてもいいことだってある。 「たっだいまっ。寂しくなかった? ボーヤ」 「う、うるせぇ……」 同時刻。ラストガーディアンの武道場では、若い忍が一人、ぼろぼろになってつっぷしていた。 「何で、俺、こんなことになってんだ?」 ぜひぜひと肩で息をしながら、風雅陽平はつぶやく。 「ってか、何してたっけ? 俺」 その言葉を最後に彼は、意識を手放したのだった。 「ようへい、よろこぶ」 あの騒ぎの中でも、はなさなかったタンブラーセットを抱え直し、翡翠は野菊のような可愛らしい笑みを浮かべていた。 |